猿でも分かる『純粋理性批判』連載第二回

連載第二回
猿でも分かる『純粋理性批判』「感覚って何?」


0 目次+α

次回は、12月1日とか書いてましたが、さっさと更新します。
前回アップした文章を読み返して思ったこと。なんて唐突にはじまるんだっ!!!
というわけで、第二回である今回からは、きちんと目次をつけます。
目次だけは、ですます調ですが、お気になさらず。
カントは、我々の認識能力を大きく分けて、悟性と感性とに分類しています。その中の感性について書かれたのが、今回の連載部分ですね。『純粋理性批判』のメインは悟性ですから(次回より開始)、云わば前菜である感性に関する記述は、圧倒的に少ない。でも、重要な部分です。なぜなら、カントは、経験論と合理論との総合を果たしたと高らかに宣言しているわけですので、その片方を、つまり経験の側を、認識全体において、どのように位置づけるかを記した部分は、超重要だからです。
目次。
超越論的感性論
1諸定義
2超越論的感性論の構成
第一節 空間について
1空間の性質の考察
2上述の諸概念からの結論
第二節 時間について
1時間の性質の考察
2これらの概念からの結論

諸定義さえ、押さえてしまえば簡単な部分です。最初だけ頑張ってついてきてください。
というわけで、以下本文はじまります〜。

第一部門 超越論的感性論

1 諸定義
諸定義からはじめよう。まずは、感性と直観。感性とは、対象を受容する我々の能力である。感性に対象が与えられることにより、直観が生じる。認識は、直観を介して、対象に関わる。つまり、我々には、感性という、対象を受容する能力がある。したがって、対象が与えられると、我々には、直観が生じ、対象を取り込むことができる。次に、感覚と経験的直観。「対象が表象能力に対して及ぼす結果は感覚である。感覚によって対象に関わる直観は経験的と呼ばれる。」この部分は、厳密に理解しようと思うと、途端に難しくなる。表象能力って?感覚って?現象と表象との区別は?疑問は止まない。だが、ここでは近似的に理解すれば充分だろう。そこで、「表象能力」の部分を、単に「我々」と置き換えてみる。すると、「対象が我々に対して及ぼす結果は感覚である」となる。つまり、全体としては、対象が我々に感覚を生じさせるのだが、この感覚によって対象と関わるような直観を、経験的直観と呼ぶ、という意味になる。
先に進もう。「経験的直観の未規定的対象は現象と呼ばれる。」未規定的がよくわからないが、省略して構わないと思う。ざっくり、経験的直観の対象は、現象と呼ばれる、と理解しておこう。現象は、感覚に対応する質料と、現象の多様を秩序付ける形式とに分かれる。
感覚を秩序づけるものは、感覚ではない。質料はアポステリオリに与えられるが、現象の形式は、我々のうちにアプリオリに存在している必要がある。「うちに感覚に属するものが見出されない表象を、純粋と呼ぶ。」「感性的諸直観一般の純粋形式は心性のうちにアプリオリに見出される」「感性的諸直観の純粋形式のうちで現象のすべての多様がある種の関係において直観される。感性のこの純粋形式はそれ自身また純粋直観と呼ばれる。


※表象は、ドイツ語でvorstellung、英語では、ideaである。
※2とおりの意味に理解できる。第一に、対象と関わることで我々に感覚を生ぜしめるような直観を、経験的と呼ぶ。あるいは、感覚を通して対象と関わるような直観を経験的と呼ぶ。要は、直観と、感覚と、どちらが先なのだろかということだ。私は、前者の解釈を支持するが。
※現象の形式と、直観の形式との関係は?私には、これは、同一のもののように思える。現象を秩序付けるものが、現象の形式であるなら、それはまさに、直観の形式のことではないか?

2 超越論的感性論の構成
まず、悟性側の要素を除去する。そして、次に、感覚に属するものをのぞく。
そうすることで、純粋直観と、諸現象の形式(この二つはどう違って、どう絡み合ってるの?)のみを残留させることができる。
本研究において、感性的直観の二つの純粋形式、すなわち空間と時間が存在することが明らかになるだろう。


第一節 空間について

1 空間の性質の考察
第一に、空間は、経験的概念ではない。なぜなら、対象を空間的に関係付ける際には、予め空間表象が、自らの内に存在していなければならないからである。第二に、空間は、外的現象に先立つ(原文は「外的現象の根底に存する」)アプリオリな表象である。なぜなら、我々は、いかなる対象も存在しない空間を想像することはできても、その逆は出来ないからである。第三に、幾何学の論証的確実性は、この空間のアプリオリな必然性に基づく。第四に、空間は一つの純粋直観である。なぜなら、我々は、唯一の空間だけを表象できるからである。つまり、個々の諸空間を我々が表象する場合においても、その根底に、唯一の「空間」というものを表象できるからである。もうすこし噛み砕こう。先に定義づけたとおり、純粋直観とは、直観のうち、我々の側に内在する、したがって、経験によらない、現象の多様性を秩序付ける何かである。我々が、現象を認識する際、必ず、空間に関する表象を伴うが、各々において表象される空間は、ひとつの「空間」としてまとめられるような類のものである。ゆえに、現象の認識に先立って、唯一の「空間」が横たわっていることになる。これは、空間が、純粋直観であることを意味する。第五に、空間は、無限の量として表象される。


2 上述の諸概念からの結論

A 空間は物自体のいかなる特性もあらわさない
B 空間は感性の主観的制約である


第二節 時間について

1 時間の性質の考察
第一に、時間は経験的概念ではない。なぜなら、もし時間の表象がアプリオリに根底におかれないならば、我々は、ある事象と別の事象とが同時に起こっていることや、一方が先行して、他方がその後に起こっていることを、知覚することができないだろうからである。第二に、時間は、全ての直観に必然的に内在する表象である。なぜなら、時間から諸現象を除去することはできても、逆は出来ないからである。第三に、論証的諸原則の可能性、または時間一般についての諸公理の可能性も、このアプリオリな必然性に基づいている。時間は、一次元のみを持つが、こられの原則は経験からは導出されない。なぜなら、経験は厳密な普遍性を与えないからである。第四に、時間は、感性的直観の純粋形式である。説明は、空間が純粋直観であることと同様であるので、繰り返さない。第五に、時間という根源的表象は無制限なものとして与えられる。

2 これらの概念からの結論

A 時間は諸対象に付属するものではないし、したがって主観的制約が捨象されても残留するようなものではない。「第一の場合には、時間は、現実の対象がなくても現実に存在する或るものとなるであろうからである。」(p109)第二に関しては、時間が対象の制約として先行することができなくなる。

※ 時間が対象に付属するものではないことの理由については、引用をそのまま載せた。上手く理解できていないからだ。引用の意味するところは、もし、時間が対象に付属するものであるとした場合には、時間は対象なしに現実に存在するおのになってしまう、ということだろう。これは、逆ではないか?むしろ、時間は、対象なしに存在することができるので、対象に付属するものではない、とするのが自然ではないか?

B 時間は内的感官の形式(⇔外的感官の形式)、すなわち、我々自身とわれわれの内的状態を直観する形式にほかならない。外的諸現象のいかなる規定でもありえないから。「時間はわれわれの内的状態における表象の関係を規定する。」

C 時間は、すべての現象一般のアプリオリな形式的制約である。全ての表象は、それ自体においては心性の諸規定として内的状態に属する。しかし、この内的状態は、内的直観の形式的制約、したがって時間に属する。それゆえ時間は、すべての現象一般のアプリオリな制約であり、しかも内的現象の直接的制約であり、まさにこのことによって間接的に外的諸現象の制約でもある。

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つまり、時間とは、純粋直観であり、さらに、直接的には、内的条件の制約であり、また、そのことにより、間接的には外的現象への制約でもあるということだ。もう少し噛み砕くと以下のようになる。まず、時間は、対象に付属するものではなく、我々の側に内在する何かである。では、何かとは?時間は、直接的には、我々の自身の内的状態を直観するために必要な、アプリオリな形式である。時間がなければ、みずからのうちの変化を認識できない。時間的な「前」と「後」がなければ、変化の概念は意味を成さないのだから。また、確かに時間は、外的現象の規定ではない。だが、すべての表象はそれ自体は内的状態である。外的現象を直観する際の生じる表象も、内的状態である。よって、直接的に内的状態を直観する際のアプリオリな形式である時間は、間接的に、外的現象の制約なのだ。

猿でも分かると言いながら、なかなかに難しい言い回しが残ってますが、最初はまとめての更新になってしまってるので、ご容赦下さい。次回からはきっと、わかりやすくなります。次回の更新は、12月1日、担当は、DKです。

文責:Man in the shadow