猿でも分かる純粋理性批判 第一回

本日より、新連載「猿でも分かる『純粋理性批判』」を始めます!

引用は極力避ける!(引用したら必ず解説を加えること。)
自分の言葉で書く!
多少不正確でも構いませんので、アクロバティックなくらいに自分の言葉で!
このブログを偶然発見してしまった、あなた!
本会の皆さん!
是非この機会に、我々と一緒に、『純粋理性批判』の内容を理解していきましょう!

次回の学習会までの範囲は以下のとおり。

序言(第一版)
序論(第一版)
第一部門 超越論的感性論
第二部門 超越論的論理学
序論 129-142
第一編 前書き143
 第一章 前書き144
  第一節 145 146
  第二節 147-152
  第三節 153-164
 第二章 
  第一節 165-175
  第二節 176-190
  第三節 191-202

更新予定。
第一版、序言、序論 本日 Man in the Shadow
第一部門 超越論的感性論 12/1 Man in the Shadow
序論12/1 DK
第二節まで12/7 OD
第三節12/9 Man in the Shadow
第一節12/12 DK
第二節12/21 OD
第三節12/21 Man in the Shadow

更新予定日は、暫定です。
更新した人が、次の人の更新日を指定してください。
というわけですので、よろしくお願いします。

――――――― 

「猿でも分かる純粋理性批判、第一回:カントの超越論哲学への導入、『純粋理性批判』序論と序言を読む」

序言

1人間理性の運命
人間理性は、答えることのできない問いに悩まされている。人間理性は、認識のプロセスを、経験に必須な諸原則を用いることで、開始するが、そのうち、答えられない問いにぶつかる。そのことで、人間理性は、みずからの能力の不完全性を知るが、どの辺りが不完全なのは詳しく知ることはできない。なぜなら、諸原則はすでに経験以上のことにも使用されているため、尺度として経験が使えないからである。

※1 問いは明示してない。個人的には、アンチノミーの話ではないかと思うが、どうだろうか?
※2 諸原則に関して。主に悟性の規則のことを指している気もするが、詳しくは以後でてくるはず。


2理性の歴史
形而上学に対する独断論者の支配がまずあった。そこでは、意志することが、すなわち実行することであった。時々、懐疑論者たちの批判が噴出したが、彼らの数は多くはなかったので、独断論者たちの支配は存続した。確かに一度は、ロックのある種の理性の自然学により、独断論者たちの要求する正当性が認められるべきかにも思えた。もともと、独断論者たちの専制的支配があり、紆余曲折の後、そこに人間悟性の自然学(ロック)が出現した。それによれば、形而上学という女王は、実は経験という出自を持つため、形而上学の優越性は嘘であるはずだ。にも関わらず、独断論者たちは、この出自は、嘘だと主張し、形而上学は自らの正当性を主張した。そうして独断論に陥った形而上学は、軽蔑されるようになる。このようにして、すべての努力は無駄になり、倦怠と無関心が支配するようになった。

※1 独断論者、懐疑論者が、何なのかわからない。ここでは、独断論=合理論とするのか、独断論=経験論とするのかにより、以後の解釈が大きく変わってしまう。ロックが、独断論に分類されていることから、独断論は経験論ではないかとも思われるが、長く形而上学を支配していたものは明らかに合理論である。ヘルプ!
※2 「意志することがすなわち実行すること」これも何を想定しているのかわからない。先の独断論と、懐疑論が何を表しているのかによって、解釈が変わってくる。

3無気力から純粋理性批判
だが、この無気力は、むしろ成熟した判断力の結果である。先へ進む第一歩となるのだから。この無気力を通過し、理性は自己認識の仕事に取り掛かる。権威者の命令によってではなく、理性の普遍法則により破局させるような法廷を開設する。これこそ、純粋理性批判である。純粋理性批判は、理性の、経験から独立な認識に対する能力一般への批判である。それは、形而上学一般の可能性と不可能性との境界の画定である。

4 自らの仕事について私の仕事は、これまでの(懐疑論独断論の)論争に決着をつけるものである。だがこれはうぬぼれではない。なぜなら、できないことはできないと素直に認めているからである。

※この辺は、敢えてざっくり省略した。気を見て森を見ず、となることを恐れるからである。細部だと思う部分に関しては思い切って雑に読む勇気を忘れてはならない。

⇒⇒ここからは、Man in the shadowによる補足
序言については、とりあえず私は、以下のように理解している。
認識論に関して、長い論争があった。合理論、経験論、懐疑論。カントの「純粋理性批判」は、これらの論争に決着をつけるものである。それは、理性の能力の可能性と不可能性との境界線の画定によってである。
本文を読めば分かるが、細部は分からないところだらけだ。
それらを逐一理解するのは、無理というもの。
とりあえず、これくらい理解して、先に進むのが効率が良いと思う。



序論

1認識の二類型(アプリオリとアポステリオリ)

経験は、悟性が、素材を加工することにより生み出す最初の産物である。経験は、何が存在するかは語るが、それが他のようにあってはならないということを語らない。つまり普遍的ではない。経験から独立したアプリオリな認識と対照され、経験から借用されるものは、アポステリオリな認識と呼ばれる。
経験から感性により与えられるもの(原文は「諸感官に属するすべて」)が除去されても、ある種の(根源的)概念と、概念から作り出された諸判断は残る。そうでなければ、われわれは何も普遍的なことを言えなくなってしまうからだ。つまり、認識において、個々の対象により与えられること以上の何かが存在しなければ、われわれは個々の事実を越えた一般について何も語りえないというわけだ。
また、ある種に認識は、経験なしに可能である。
本研究にとって、悟性が、習得できるものよりも、理性の探求こそ崇高である。だが、これらの認識は、いかなる範囲、妥当性、そして、価値を持つのだろうか?

※ 悟性や理性に使い分けに関しては、これから本書を読みすすめることで徐々に分かってくると思うが、現段階では、あまり気にしなくて良い。

2 分析的判断と総合的判断の区別

主語と述語から成る文章を思い浮かべてみよう。すると、二つの類型が考えられる。一つは、述語が、主語の内に含まれる文章、つまり主語を分析すれば、述語が出てくるような文章である。たとえば、海は青いなどがこれにあたる。そして、もう一つは、主語概念に新たな意味を付加するタイプの文章だ。物体は重いなどがこれにあたる。物体概念をいくら分析したところで、重いという性質は出てこないだろう。前者を、分析的判断、後者を総合的判断と呼ぶ。

3 経験判断(アポステリオリな判断?)はいかにして可能か。

経験判断については簡単である。分析的判断については言うに及ばない。また、総合的判断についてもいかなる困難もない。経験によって我々のうちに形づくられた概念に、内には含まれないけど経験可能な述語を付加するだけなのだから。

4 アプリオリな判断はいかにして可能か。

だが、アプリオリな判断に関しては事情がことなる。分析的判断はよい。問題となるのは、アプリオリな総合判断においてである。総合の補助手段としての経験が欠如しているからだ。経験判断においては、経験という媒介を通じて、概念同士を結合した。だが、経験不可能な領域において、概念同士を総合することはいかにして可能なのであろうか?
「生起するものはことごとく自らの原因を持つ」という命題について考えてみよう。
「生起するもの」という主語概念を分析してでてくるものは、せいぜい時間であり、「原因」の概念は、含まれない。なぜわれわれは、「原因」の概念を、「生起するもの」の概念に含まれないにも関わらず、それに属するものとして認識するに到るのであろうか?
本文では、「さて、われわれのアプリオリな思弁的認識の究極意図全体は、そのような総合的諸原則、すなわちもろもろの拡張原則に依拠する。」とされている。つまり、何らかの諸原則にしたがって、アプリオリな総合判断が可能となっている。それでは、その諸原則とはいったいなにか?このことを探求する仕事こそが、本研究、すなわち「純粋理性批判」なのである。カント曰く「アプリオリな総合判断の可能性の根拠の発見、各種総合判断を可能にする諸制約を洞察すること、このような認識全体をひとつの体系においてその根源的な源泉、区分、範囲、限界にしたがって、充分に規定することが重要」である。

5 純粋理性とは何か。

ここからは、定義づけに入る。
まず、「純粋」とは何か。カントによれば「異種的なものを少しも混入していない各認識は純粋と呼ばれる。しかし一般にいかなる経験もあるいはいかなる感覚も混入されていない認識、したがって、まったくアプリオリに可能である認識は、特に、端的に純粋とよばれる。」つまり、経験によらない認識を(そしておそらくアプリオリな認識)を、カントは「純粋」と呼ぶのである。
では、「純粋理性」とは?カントは言う。「理性は、アプリオリな認識の諸原理を供給する能力である。それゆえ、純粋理性は、或るものを端的にアプリオリに認識する諸原理を含む理性である。」何のことかさっぱりだと思うかもしれない。実を言えば私も良く分からない。理性と純粋理性の違いは?引用の前半部は、要するに、我々は、理性を持つからこそアプリオリな認識が可能だ、ということだろう。そして、後半は、アプリオリな認識を可能にするような諸原理を含むような理性が、純粋理性だといっている。だが、そもそも理性とはアプリオリな認識を可能たらしめる諸原理を含むからこそ、理性だったのでは?だが思うに我々は、後半部を覚えておけば充分だろう。なぜなら、カントにおいて、「理性」は非常に多義的だからだ。カントは理性を広義にも、狭義にも用いる。カントにおいて「理性」がどのような使われ方をされているのか、これは、本連載の終了時にでも理解できればよい種類のことだと思われる。「純粋理性」とは、アプリオリな認識を可能にするような諸原理を内包する理性だ、ととりあえずは覚えておけばよいだろう。

6 純粋理性「批判」とは何か。

オルガノンという用語がある。近似的には、論理学の意で、ここではその程度の理解で充分だ。詳しく知りたい方は、岩波全集版の『純粋理性批判』の訳注を参照のこと。カントは言う。「純粋理性のオルガノンは、すべてのアプリオリな純粋認識がそれらにしたがって獲得され、現実に実現されうる諸原理の総括となるであろう。」つまり、「純粋理性のオルガノン」というプロジェクトは、アプリオリな認識を可能にするような理性の諸原理が、包括的に透徹された論理において展開されるべきだということである。だが、このようなプロジェクトは難しいし、実際問題、その前にやるべきことが存在する。カントによれば「われわれは、純粋理性について、その諸源泉と諸限界とについて単に判定するだけの学問を、純粋理性の体系への予備学とみなすことができる。そのような学問は、純粋理性の教説とよばれてはならず、単に純粋理性の批判とよばれなくてはならないだろう。」という。すなわち、純粋理性の一般的で包括的な教説(純粋理性のオルガノン)の前に、純粋理性の諸源泉の解明と諸限界の画定がなされるべきであり、それこそがカントがここで行う「純粋理性批判」というプロジェクトである。この批判を行うことで、理性を諸誤謬から解き放つことができるのである。

7 超越論的

次に、「超越論的」の定義に移ろう。「諸対象に専念するというよりも、諸対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に専念するすべての認識を、私は超越論的と呼ぶ。そのような諸概念の体系は超越論的哲学とよばれるであろう。」つまり、「超越論的」とは、我々の外の対象を認識する(おそらくはこれが経験)ことではなく、「対象一般についてのアプリオリな諸概念」(下の※を参照こと)の認識のこと。そして、この認識の体系が「超越論的哲学」となる。だが、カントによれば、彼の研究を超越論的哲学と呼ぶのは過大である。なぜなら、超越論的哲学においては、分析的認識も、総合的認識もともに、充分に議論されなければならないが、カントが行うのは、アプリオリな総合の諸原理の洞察であり、分析に関しては、その際に必要になる限りにおいてであるからだ。ただの「超越論的批判」と呼びうるに過ぎない仕事なのだ。

※ 諸対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に専念するすべての認識
純粋悟性規則(カテゴリー)に専念する認識ってことか?だとすれば、カテゴリー研究の体系が、超越論的哲学となるが…。直後に、この名称は過大だと言っているから、さすがにカテゴリー研究ごときの体系が過大とはならないだろうな。もっと複雑な議論がおそらくは必要なのだろう。

⇒⇒ここからは、Man in the shadowによる補足
序論で、押さえておくべきこととして、まずは、「純粋理性批判」というプロジェクトにおいて、アプリオリな総合判断が、重要な位置を占めるという事実だろう。それに加えて、「純粋理性」「超越論的」などのカント哲学における要となるような各種用語の意味を理解しておくべきであることは言うまでもない。

本日は、これまでです。
なんとなく、色変えてみましたが、見づらいと思ったら、変更して構いませんので。

次回の更新は、12/01(土)Man in the shadowとDKの連続更新です。


(文責;Man in the shadow)