猿分かり純粋理性批判 第三回

担当者が更新しないので、代理で。
ルールを設けましょう。
担当者が期日までに、更新しない場合、他の人も更新が可能。
更新予定者には、ペナルティーとして、飯おごりが課される。
まー、今回は、いきなりなので、飯は酷でしょうねー。
というわけで、次のパートのとき、コーヒーおごりでw

猿でも分かる純粋理性批判 第三回
第二部門 序論

第二部門は、長いです。
第一部門と比べるとすごく。
その大雑把な見取り図を描いたのが、この序論にあたります。

序論自体は、短く、ここで把握すべきことも多くはありません。
というか、楽勝。

1「思惟」の学問としての「論理学」
2「超越論的」を誤用しないための注記
3「論理学」と「弁証論」

以上の3点を押さえておけば充分です。

では、まず1つめ。
認識には、前回詳しく説明した、「直観」のほかに、「思惟」が必要になります。
対象を受容する能力としての感性が「直観」により、対象を受容する。
では、受容した対象は?これを、自分の中に運び、脳みそと結びつけるものがないと認識には至りませんよね。
これが、悟性の「思惟」になります。
身近な例で説明してみます。みなさん、i-tuneを使って、CDから音楽をPCにインポートしますよね。
その際、ドライブのCDを読み取る部分が、「直観」になります。
「直観」により対象(音楽)が内部にインポートされうる状態になったのですが、まだ、だめですね。
ここで、i-tuneが、ドライブが読んでくれた情報(対象)を、PCで再生できるように何らかの処理をしてくれますね。
これが、「思惟」にあたるわけです。感性がドライブであり、悟性がi-tune。
大雑把な例えですが、これでひとまずは、充分でしょう。

そこで、この「悟性」の規則を研究するのが、論理学にあたります。
普段、われわれが論理学と言ってるものとは、もちろん重なるでしょうが、違うものとして、とりあえずは、考えたほうが手っ取り早い気がします。
悟性学とでも考えていただければいいのではないでしょうか。多分ですが。
で、この論理学には2通りあって、一つが一般的悟性使用の論理学。もう一つが、あれこれ学問のオルガノン(道具)。
前者は、悟性を、対象に関わりなく、分析する学問。つまり、対象が何であれ、共通して働く悟性の機能の研究。後者は、その悟性規則がいかに各々の対象につき、応用されるのかを見る学問。こちらは、応用だけあって、学問が今(カントの時代)よりずっと進化した後、人間理性が最後にたどり着くような性質のもの。

また、一般論理学にも2通りのものがあり、経験的要素を除外した純粋論理学、経験的原理を持つ応用論理学。
(対象に関わらないのになぜ経験的?と思われるかもしれない。私もそう思うが、ここでは、深く考えず、単に、直観にも、経験的なものと、純粋なものがあったのだから、思惟にも、経験的なものと、純粋なものがあるのだ、と押さえておけばいいと思われる。)

次に、二つ目。
アプリオリな認識が超越論的と呼ばれるのではない、とカントは言います。
「ある種の表象(直観あるいは概念)がもっぱらアプリオリに適用されるということ、あるいは可能であるということ、ならびに、どのようにして適用されるのか、あるいはどのようにして可能であるのかということを、われわれがそれを通じて認識する認識のみが超越論的と呼ばれなければならない。」(134)
これは、パラフレーズすると、表象がアプリオリに適用されていることを、われわれは、超越論的認識を通じて知ることが出来る、というところでしょうか。

三つ目に移ります。
論理学(単に論理学というときは、一般悟性使用の論理学と考えればいいと思います)は、内容に関わる誤謬を発見する試金石をもたないといわれます。
つまり、対象に関わるものは、あれこれ学問のオルガノンであり、一般論理学をそのまま、内容に関わるべく応用しようとすればそれは、誤謬を招く結果となってしまいます。このように、誤ってオルガノンとして使用された、一般論理学は弁証論と呼ばれます。ここで、「弁証」は、仮象の論理学、つまりソフィストの用いる詭弁をイメージしてもらえれば、正解です。
第二部門の構成に、なぜ弁証論が入ってるのか。つまり、弁証論的仮象への批判として、論理学に参入させたわけです。
オルガノンとして、一般論理学を誤用してはいけませんってことですね。

これだけです。こんなものちゃんと読んでれば30分程度で更新可能。というわけで次回の更新は今週金曜、担当は、OD。範囲は141-152。
更新が無い場合、適当に更新します。ご飯がだんだん豪華になるので、更新しなくても歓迎です☆