「演繹」について

次回より、第二部門、第一部、第二章「純粋悟性概念の演繹について」に入る。
初め見たとき、カテゴリーを、演繹する章なのか、と思った。
間違ってはいない。
だが、注意しなければならない。
「演繹」の意味が現在とは異なる!ことに。

以下では「演繹」という術語の当時の使用法について、ドイツの哲学者Dieter Henrichによる論文「超越論的演繹とは何か」(『現代思想』1994年3月臨時増刊)を簡潔に紹介する。

■「演繹」は三段論法ではない。
普通我々は「演繹」を三段論法による証明だととらえるだろう。
だが、カントの時代、「演繹」には、様々な使用法が存在した。
勿論、三段論法という意味で「演繹」が使われることもあったが、カントのテキストにおいて、そう理解すると、首尾一貫して理解することができない。
ゆえに「演繹」が、三段論法を意味するのではないと理解するほうが、自然なのだ。

■「演繹」の原義
演繹:deduceのもともとの意味は「あるものを他のあるものへと導いていく」であった。
極めて広範な使用法が存在し、たとえば、新しい河床を掘って河を演繹するなどという使用法もあった。

■「演繹」の定義(カントによる)
純粋理性批判』の当該箇所、第一節「超越論的演繹一般の原理について」(ODの担当箇所)を見てみる。
「法学者は、権限や越権について論じる際、一つの訴訟事件において、何が正当であるかという問い(権利問題)を、事実にかかわる問い(事実問題)から区別し、両者について照明を要求する。そして法学者は、権限を、あるいはまた権利要求を立証すべき前者の証明を演繹と名づける」
長々と引用したが、これを読む限りでは、三段論法が、権利要求を正当化できるという意味で「演繹」を三段論法と解釈するのは、一見明瞭だ。
だか、そうすると、重要なことをとらえそこなう。
以下では「演繹」の正しい意味を、いくつかのステップにわけて示す。

■演繹文書
当時「演繹文書」なるものが出回っていた。それは、係争中の権利要求を正当化するために、都市国家神聖ローマ帝国の支配者たちが刊行した出版物であり、発行主体は政府自身だった。領土の相続や統治権の法的継承に関するものが大部分だった。

■新しい「演繹」(※この新しいとは、カント以前の時代と比べてのこと。カントの時代における「演繹」を意味する。)
演繹の慣習は古来から存在し、ローマ法の伝統の復活、近代的法理論の整備という2つの大きなプロセスに洗礼を受けた。
新しい法学者たちは、演繹の古い使用法は目的達成にとって不便だと考え、演繹の分析と指針を新たに示した
例えば、よき演繹の基準は以下のようなものだった。
「演繹は理論のための理論ではない、所有や使用の正当性への要求を正当化することを意図する議論。余談、一般化、原理についての論争など、理論家が好むことは避けるべき。演繹は、簡潔かつ明快であるべき。」

■法的演繹の議論の形式(自然法の理論家によって述べられたもの)
Christian Wolffによれば、権利のタイプには<生得/獲得>がある。
また、ピュッター、アッヘンバルによれば、権利のタイプには<絶対的:人間と分離できない/仮説的:事実や行為から生じる>がある。
仮説的=獲得の権利が真正かどうかはを調べるには、所有権の起源を法的に追跡しなければならない。

■演繹の定義(自然法の理論家による)
「所有権や使用が、その起源が説明されることによって説明され、所有権や使用の正当性が明白となるに到る過程を演繹と定義する」

■「演繹」と「認識論」
演繹という方法論的概念と、知識の起源という認識論的な概念の二つが『純粋理性批判』の用語法において不可分に結びついている理由が、ここで理解可能になる。「演繹」とは、知識の起源を探り、その使用の正当性を求める過程、というわけだ。

■カントにおける「いかにして…は可能なのか?」という問い
上のような、立論形式をよく見かけるが、これも同じ文脈で理解可能だ。 
この問いは、私たちが知識を所有するための充分条件を求めているのではない
私たちが真正な知識を所有すると要求することの正当性が疑われている状況において、その要求の真正な起源と、その正当性の源泉を発見し吟味するよう努めることなのだ。

■あらたに生じる疑念
だが、説明と正当化との、事実問題と権利問題との区別はどこへいった?
これでは混同されてしまう!

■遺言の例
 ⇒来歴の報告・事実報告
  ⇒遺言が書かれた経緯、いつかかれたか、どのように保存されてきたか
 ⇒法廷で事実報告が行われる
 ⇒権利問題に決着をつけることはできない
 ⇒ものが獲得されるに至った経緯に注目すべき
 ⇒事実問題が困難に陥っても権利問題に答えることはできる
 ⇒遺言が作られた仕方について完全な来歴を語ることはできな
 ⇒いくつかの側面で遺言が真正だといえれば権利問題に決定打を与えられる


■カテゴリーの超越論的演繹への適用
カントは、われわれの知識の獲得について、十全な事実報告をつくることは不可能と考えた。
哲学において法学者たちのいう事実報告(来歴の報告)に対応するのは、理性の自然学であり、しかし、多くの理由から自然学的な説明は不可能とカントは考えたわけだ。カントの諸々の演繹が示す相違は、私たちが言説の起源や原理へと到達する様々な仕方によって、また起源そのものの概念が様々であることによって説明することができる。

■理性の自然学へのカントの批判
理性の働きの根元と生成に完全な説明を与えるのは有望ではない。(つまり、無謀!)
彼らは、また、理性の要求を懐疑論に対して正当化するという仕事を回避している。

■理性の法廷
懐疑論者が、理性が対象に関するアプリオリな知識を所有するとの要求に挑戦したとき、哲学における法廷が開かれた。
そこで、知識の起源の探求が必要とされたのだ。
カントが「超越論的分析論」によって意図するのは、演繹を作れる範囲で作成し理性の要求を正当化し懐疑論者の主張を退けることなのだ。

■おわりに
以上、まとめてみたが理解できただろうか。
該当箇所を読むとき、本文章を参照すると、それなりに役に立つはずだ。
細かいところまでの理解は要求しない。
「演繹とはなにか?」と質問して、一行程度で答えられれば、充分だろう。
一行、それが
三段論法
だと思った人は、残念です。(Man in the Shadow)