思想地図シンポジウムのレポート

「思想地図」シンポジウム@東工大 1/22
論者:東浩紀北田暁大萱野稔人白井聡中島岳志(以下すべて敬称略)
テーマ:「国家・暴力・ナショナリズム

というわけで行って参りました。
行くときにノリでレポート書くとかいいましたが、面倒なのでメモからテキストベースに起こしたものをベタっとはっときます。あと何らかのミスなどがありましたら、全て私の責任です。

最初に感想だけ簡単にかいておくと、東のブログ記事と合わせて、東のやりたいことは大体わかった気がする。簡単に言えば、嫌韓厨がどうのというよりは、「国家とは何か」とかそういう抽象論がやりたいんだと(笑)。
何でこの時期、彼が「政治」について語ろうと思ったかというのは疑問としてある人は多いだろうけど、彼の中でもサブカルと「政治」というのが連続している、まあよく言われる政治のサブカル化というよりは、サブカルの政治化という感じ。
が、やりたいことが抽象的なので、どこまで着いてこれる論者、読者がいるのかというところに不安があるような気がする。今日のシンポでも、一番抽象度が高かったのは東で、もっとも根源的な問題提起をしたいたのも東だった。東がそういう方向性がやりたいんだ、というのは伝わってくるんだけど、他の論者がそれを受けて同一次元で話せていたかというと…。
そのあたりの方向性をはっきりさせないと、ずっこけるor普通の論壇誌と同じになりかねない気が…まぁ一学部生が気に病むようなことではないですが。
あと、東は「国家」というものの重要性に対して、前から(ほとんど言及しないという形で)疑問をはさんでいたわけですが、このシンポでついに決定的になったという印象でしょうか(笑)。正直、東と政治学者と議論が噛み合うのかすごい疑問(笑)。

以下べたっとメモの貼り付け。メモからおこしただけで、ほとんどまとめてないので、かなり読みづらいと思いますが…。

第一部プレゼン


1995年以降、アカデミズムが実効性を持った言葉に換言されている。もっと抽象的な議論が必要だ。そういうわけで『思想地図』を刊行する。

北田
前提として再帰的近代の議論。自らの不完全性をチェックし続けるのが近代的な学問。
80、90年代になり社会構成主義が主流となった。たとえば、バトラーを始めとするジェンダー論。「ナショナリズム」「国家」というのは近代のフィクションである、という風潮。
しかしこれにはいくつかのアイロニーがあった。たとえば、国民国家論において、社会構成主義は「国民国家」がフィクションであることを明らかにしたが、結果ナショナリストたちによって「よりよい『物語』の構成すればいいではないか」という議論になる。つまり、イデオロギーの差異は同一平面状の差異にすぎない。

『思想地図』で語りたいことは社会構成主義的なものだけでない。社会構成主義のジレンマを再確認し、執拗に「国家」「ナショナリズムが出てくるリアリティを語りたい。(『東京から考える』の4章)
いわばポスト社会構成主義について考えていきたい。

白井
社会学帝国主義構成主義によって全てが社会によって構成されている。全ては政治的だ。つまり、政治学的立場からすれば政治に固有領域が無い。言わば「政治」のインフレーション状態だと。つまり「政治」を語る文法が欲しい。
「国家」…たとえば『国家の品格』など最近中心的なタームとなっている。しかし、政治(学が?)が反応できてない。政治学の内部だと国家が見えなくなる。問い直される概念ではない(言わば政治学においては前提概念)。
「国家論にひかれる理由」(仮説)…近代国家成立というものの転換期なのではないか?ナショナリズムが基盤を失いつつある。グローバル化によりフィクションとして成り立たなくなっている。
フォーディズムのもとで、近代工業社会においては「資本家」と「労働者」双方に利益を与えることが可能だった。つまり国民統合が可能であり、これはナショナリズムの基盤になっていた。
しかし、階級が分断された(共有される利益は無い)。つまり、想定していた「国民」がいない。「国民の無い国家」が存在できるのか?
国民同士で共有できるのは「セキュリティ」ぐらいしかない(「対テロ戦争」を肯定する言説となりつつある)。だからこそ国家"固有"のロジックが明らかになりつつあるのではないか。→「国民国家」再定義に

中島
ナショナリズム…近代のフィクションが前提になっていた。しかし、ナショナリストにとってナショナリズム自体が「原初的」なものとして考えられる。なぜそういう現象として考えられるのか?
アンダーソン「国民は主権的なものとして存在する」国民主権ナショナリズムの重要な理由となっていた。ある特定の地域に住みものは平等、国家は国民のもの。フランス革命など。言わば「下から」のナショナリズムだったと。
しかし、それ以降王朝そのものがnationを乗っ取っていく。公定ナショナリズム。言わば「上から」のナショナリズムが出てき始める。排除された国民への脅威がその源泉としてある。
そして、支配階級はnationの原初性を偽装していく。たとえば、故郷など。その結果、ナショナリズムは原初的なものと思われていく。初発のナショナリズムは「方法としてのナショナリズム」としておk。解体すべきはその「偽装性」。

萱野
「国家」というものを考えるときに理論的に構成主義は有効なのか?国家フィクション論はダメなんだ。「国民」「国家」がフィクションでなければ、何なのか?
国家だけが暴力行使おk。合法的暴力の独占。byウェーバー
現行犯、正当防衛←「合法」的に暴力おkだが、それは国家に認めなければダメ。
「国家」というのは「暴力」の権利の源泉。←これはフィクションとは異なる捉え方。
権利/権利とは認めない、つまり合法/違法の境界線を決めるのは国家だ。「モノ」へのアクセス可能性を国家は保障する。つまり「権利」関係を設定しているのが国家。

国家が存在する理由?どこの地平にあるのか?
前近代において、あらゆるエージェントが暴力への権利を持っていた。→それを一元化したのが「国家」の誕生だと。つまり国家というものは「暴力」というもので捉えていくべきだ。
しかしそうなると、社会そのものが非暴力化してく。その結果、国家も「非暴力」的になっていく。その結果、国家と暴力のつながりが見えにくくなる。それが社会構成主義が出て生きた理由。

第二部 ディスカッション

第二部
東:「ナショナリズム」と「国家」をつなぐものとして「主権」というのが考えられるのではないか。ルソーの「一般意思」という話になる。ルソー自体には「主権をコントロールする」という発想自体が存在しない。
中島:橋川文三は「右翼の思想は一般意思は存在しない。主権者は天皇天皇の自然意思だけ」
三島由紀夫は「日本の一般意思こそが天皇天皇を中心として一般意思。
東:一般意思と個人の意思は違うが存在し、ダイレクトに接続する。中間段階はダメだと(特殊意思になってしまうので)。非常に宗教的?
萱野:「主権」とは合法的な暴力の限定。「戦争」のアクターは近代国家だけとなる。アクターが一つの領土に一つだけある。
東:暴力の独占装置でいいのか?一般意思かんけーなくね?
萱野:暴力は最終的な決定を決めるもの。
(その後数行、自分のメモの文字が解読できず。一般意思と決定の関係について話していた?)
北田:「一般意思」はわからないけれども、重要なものとして位置づけられている。コミュニタリアン的なものと国家の接合点が一般意思というフィクションだったのではないか。三島にとって「天皇」が最終審級だったと。
東?北田?:「方法としてのナショナリズム」と丸山真男との関係はどうなっているのか?
中島:丸山と近しい。「ナショナリズムは近代をめぐる問題。自由民権運動から玄洋社が出てくるなど。「民主」と「愛国」をめぐる問題。
しかし、ナショナリズムは「アイデンティティ」や「承認」をめぐる問題に関ってこない。本質は違うところにあると思うから。だから、一般意思/ナショナリズムをわけて考えるべきだ。

北田:国民主権への理由としてナショナリズムナショナリズムは動機付け装置という位置づけ。(「方法としてのナショナリズム」に対して)

萱野:動機付けになるのか?アイデンティティのレベルとナショナリズムを分離できるのか?国民の資格を問うのは何なのだ?というところでやはりアイデンティティの問題が出てくる。

白井:ルソーは一般意思と個別意思のずれを違うとこに移していく。そしてその結果、現実に存在している中間団体に対して否といっている。結局、そのズレは現実の矛盾にうつっていく。ルソーの矛盾は特殊な形で現実に介入するようになっていく。
前近代において、官僚になっていたのはマイノリティや宦官。社会の中の有力者はダメ(一極集中するから)。しかし、近代国家は万人に国家権力へのアクセス可能になった。それは大変危険。
なぜ、それは可能だったかというと、私たちは去勢されている、つまり特殊意志を持つことを禁じられているから。
契約論のみでナショナリズムは成り立たない。ルソーは偶像的なものなしで、「一般意思」を立たせる。日本という国土において天皇をかませないと「一般意思」は出てこない。

東:ロックの所有権、ホッブズの暴力などはメンバーシップの問題にかかわってこない。でもルソーの「意思」はメンバーシップの問題にかかわってくる。(ピーター・シンガーを引用して何か言っていたが省略)。

萱野:国家の決定に誰が参加するのかという問題。決定を誰がするのか?

東:決定というのは本当に最終審級なのか?インターネットは誰も決定していないのに、決まっているものものある。
メンバーシップを1/0でわける必要ない。サークルにおける幽霊部員とか。でもルソーの一般意思はメンバーシップの問題に還元される。自己矛盾かかえているけれど、これでいいのか?

国家が本当に最終審級か?ルソーは私が考えていることがダイレクトに一般意思とつながってくる。つまり、誰が構成員か決まれば、あとは問題なし。だから、結局メンバーシップの問題に還元される。

萱野:国家が決定しているのは「権利」の決定。どこに介入するのか否かにするのかは可能。メンバーシップを形式的にしていくことはある程度可能であり、形式的にすべきだ。

東:方法としてのナショナリズムに反対。結局、メンバーシップに戻る。

萱野:決定の正統性は結局だれが担保するのか?誰がメンバーシップを決めるのか?
(メモ読めず)
中島:実存に踏み込むのはやはり問題。

白井:生/死にかかわるものを担保するのはナショナリズム。近代国家成立は宗教戦争において宗教を棚上げすることによって、国民国家が成立。やっぱり実存の問題にかかわってくるのではないか?

中島:個別宗教とメタ宗教をわけて考えることが必要。山にたとえるなら、個別宗教は山の登り道。メタ宗教は山の頂。つまり真実は一つで多様な上り口がある。というモデルで考えることが可能なのではないか?→京都学派

北田:個別の対立からメタの問題に移行させるというのはうまくいかない。たとえば、京都学派などはメタ的な地位を持った「日本」などを想定する→大東亜戦争へ。
サブにおかれることを認めいパースペクティブもある。一神教など。マルチカルチュラリズムはそういったもものに否定されてきた。

東:決定審級が一つであることが問題ではないか?ロックは身体/財産をわけて考える。身体への○○が最終審級でいいのか?

萱野:身体>財産であり不可分。ロックの想定は遺産。

東:もっと議論の水準を分散化させるべきだと。社会契約は市場が決定するという考え方も可能。ルソーの一般意思をもっと考え直す必要性。これがナショナリズムに。

萱野:ナショナリズムは宗教の代替として機能している。社会契約論はそんなことは論じてない。

東:自発的な参加を促すために「方法としてのナショナリズム」ならば、国家の管理をまるなげしたいひとはどうするのか、という点はどうなるのか?
私企業はメンバーシップは決定しなくていい。

萱野:言わば「決定参加」の強制

中島:アレントがベースにある。ある意志をもって共同体に参加する。そうしなければ、人間的秩序が保てないのではないか。

北田:環境を整えればおkということか?>東

東:No(ただこのあたりに関しては東ブログ参照のこと)。公共性は国家に還元されない。国家のコントロールが魅力的ではない。ばらけた公共性を、それを社会の公共性につなげていければおkじゃないか。

萱野:議会制民主主義を必要としているのは国家の方(正統性の調達のため)。

白井:東の立場はメタアナーキズム的。アナーキズムは国家は必要の無いと主張するが、それは国家の重要性を認識しているからこそ。東は徹底したアナーキズム本居宣長の文化人的態度(←このあたりのことはよくわからん)

(ちょっと割愛)
東:暴力の独占装置ぐらいしか国家の役割はないのではないか?

北田によるまとめ
社会構成主義 と サブカル的なナショリズムは不可分。表裏一体。
社会構成主義は幻想性を主張。サブカルナショナリズムはよりよい幻想を与える。

この図式から抜け出すにはどうすればいいか?
というところが出発点。

(文責:K.D.)